「そもそも、守屋輝彦(もりやてるひこ)って、どんな人?」
私は、1966年に小田原で生まれ、神奈川県庁に建築職として18年勤務して参りました。
その後、2011年に神奈川県議会議員にトップで初当選し、2期を務め、任期満了後、小田原市長選に挑戦することに決めました。
守屋とはどんな人間なのか?
なぜ政治家をしているのか?
2020年――。
53歳の今、大きな決断に至った過程をお話します。
「まさか、おまえが議員をやるとはねぇ」
「まさか、おまえが議員をやるとはねぇ」
これは、2010年、18年勤めていた県職員を退職し、神奈川県議会議員に立候補することを決めたときに私が幼馴染から言われたセリフです。
祖父の代から政治家一家だった私ですが、幼少期は引っ込み思案で内向き。あまり人前で話すのも得意ではなかったのを記憶しています。
小学校の頃から太っていましたし、足も遅かったのです。
今でも、小学校の卒業文集を開くと、当時の自分の言葉に驚きを覚えます。
<僕は、人前で話すのが嫌いです>
そんな言葉を堂々と綴っていた私がいま、市長選に挑戦しようと思っているのは自分でも不思議でなりません。
人生の転機。小田原高校時代の3分間スピーチ
そんな引っ込み思案な性格の私でしたが、転機は地元の小田原高校に進学したときに訪れました。
高校の授業で、3分間スピーチの時間を設ける先生がいました。
ルールは、必ず3分以上話すこと。テーマはなんでもあり。長い分にはどれだけ話しても構いません。
その授業で、初めてスピーチの順番がまわってきた私は、なんと45分間しゃべり続けたのです。
当時のテーマは忘れましたが、クラスメイトが、とても興味深く話を聞いてくれたのを覚えています。
あっという間の45分を終え、先生からはこんなことを言われました。
「こんなに話したのは、守屋が歴代で2人目だ」
自分はこんなに人に伝えたいことがあったのだ、と驚いたのを覚えています。
ここまで話すと真面目な生徒だったように思われるかもしれませんが、高校時代はサッカー漬けの毎日。
先輩の代は全国大会に出ましたが、私の学年は神奈川県8強。それでも公立進学校では健闘したほうです。
当時は県立旭高校や県立鎌倉高校が強豪校だったのを記憶しています。
時代は1980年代後半。 バブル時代に突入する時期でしたが、母校はバンカラ気質が残り、生徒の大半は部活に精を出し、浪人して大学に進学する同級生が多かったのを記憶しています。
建築学科に進むも、2年留年。やる気を回復させた運命の出会い
1年間の浪人生活を経て、神保町にある東京電機大の工学部建築学科に進みました。
「大学時代の探究心がいまの守屋を形作っています」
建築に興味を持って入学したものの、3ヶ月で気づいたのは、自分が思った以上に建築に興味がないということ。
結果、授業にはあまり出ず、アルバイト代を貯めてはヨーロッパやアフリカなど、海外旅行に出かけていました。冷戦下の旧ソ連にも足を運んだのはよい思い出です。結局、建築学という学問への興味は持てず、大学を2年留年することに。「もう大学はいいや」と中退を考えていたころに運命の出会いがありました。
(大学時代アフリカで撮った写真。最後列右端)
1年を2回、2年生を2回やって、3年生になったころ、石川允(いしかわまこと)先生という都市計画の先生が赴任されました。
それまで、建築には興味を持てなかった私ですが、都市計画には強く惹かれました。
市町村の風景がどのようにして秩序を生んでいくのか、そのダイナミズムに触れたことで、学問への興味が復活。
石川先生の研究室に所属し、学生時代の後半は必死で都市計画を勉強しました。
結果、当時の法律では都市計画の権限は県に集中していたこともあり、私は迷わず県職員になることを選んだのです。
その後、県庁に在籍しながら東京大学大学院で都市工学を学ぶことになりますが、その進路を選んだのも、県職員になり、自治体の都市計画に携わったからにほかなりません。
つまり、石川先生との出会いは、高校時代の3分間スピーチとならんで私にとっては“大事件”だったのです。