3月3日に開幕した北京2022冬期パラリンピックは、沢山のアスリートの活躍を残して3月13日に閉幕しました。改めてパラスポーツの持つ力を再認識しました。
さて、皆さんはパラリンピックと小田原の関係についてご存知でしょうか。障がい者スポーツとその競技大会は、ルードウィッヒ・グットマン博士が、1948年にストーク・マンデビル病院内でアーチェリー大会を開催したことに始まり、それが国際大会となることなどにより発展していきます。
グットマン博士に出会い、日本でも障がい者の治療にスポーツを取り入れようと尽力されたのが中村裕(なかむらゆたか)博士でした。中村博士は、1964年の東京オリンピック開催後に、障がい者の国際スポーツ大会を開催することを訴え、それは東京パラリンピックとして開催されたのです。
パラリンピックという言葉が初めて使われたとされるこの大会には、市内の風祭にある旧国立療養所箱根病院から、戦争で負傷し入所していた患者ら19名が参加しました。選手宣誓をしたのが箱根療養所の青野繁夫(あおのしげお)さんでした。当時の写真を拝見しますと、宣誓をする車いすの青野さんの後ろに、見守るように立つ選手団団長・中村博士の姿があります。試合においても選手たちは活躍し、7つのメダルを小田原に持ち帰っております。
当時の日本では、障がい者や障がい者スポーツに対する認識や理解は、今日とは比較にならない状況でしたが、中村博士ら関係者の大変な努力と箱根療養所入所者の参加により、東京パラリンピックは開催され、これを契機に、障がい者を取り巻く様々な環境について、我が国と先進国との大きな違いを知ることになり、そのことが障がい者の環境改善に向けての新たなスタートとなったと言われています。
私は県議時代に障がい者福祉に関して先進的な取り組みをしている、中村博士が設立した別府市の「太陽の家」を訪問したときに、私たちは小田原の方々を尊敬し、活動を継続していますと言われたことを思い出します。本市は新年度に共生社会推進本部を立ち上げて、全庁的に施策を進めてまいりますが、先人達に恥じないよう全力で取り組んでまいります。